抜型90年史ヒストリー

日本における紙器抜型製造の歴史は古く明治時代まで遡り、それらは東京抜型工業会25年記念誌、「道」に詳細な記述があります。この業界記念誌の一部を抜粋・引用し、以下に抜型85年の歴史として明治末期以降、当社に関連する史実の概略についてご紹介します。

明治38年: 大阪で開かれた内国勧業博覧会にドイツ製ビクトリア型印刷機*1が登場。
東京の辻本三色版印刷所(後の辻本写真工芸社)が最初に購入。
明治44年: 英国王ジョージ5世の戴冠式に出席するため、日本の皇室から英国皇室への贈り物用のシール製作を宮内省が浅野3兄弟で創設された合資会社、尚山堂(後の東京紙器、現在の凸版印刷)に依頼。
銅板印刷打ち抜き法により製作。
明治45年: 「紙器」の名付け親、田島志一氏が、日本紙器製造所(現在の日本大昭和板紙株式会社)を起こす。
打ち抜き機、トムソン型2台*2を購入。それまでは「紙函」が一般的な呼称であった。
大正元年: 尚山堂が、独コーボルト商会を通じ、エンボス(浮き出し)つきシール印刷機を輸入。
大正3年: 浅野3兄弟の一人、水野倶吉の考案による森永製菓のミルクキャラメル紙箱が誕生。 上野公園で開催された大正博覧会で従来の缶入りキャラメルの半額、20個入り10銭で販売したところ、ヒット商品となる。(抜型は片山抜型製作所の製品が使用される。)
大正6年: 尚山堂が東京紙器株式会社に社名を改称。
大正11年頃: 陸軍砲兵工廠出身の青木吉之丞(片山抜型製作所、創業者)が、遠い縁戚関係にあたる浅野鐵二の支援を受け、紙器抜型業を創始する。社名は青木製作所。山の手方面での抜型業の草分けとなる。同じ頃に、北山製作所、森田製作所が日本紙業の田島氏から技法を学び、木製抜型を創始。
大正15年: 日本紙器が凸版印刷に吸収合併される。
昭和4年: 刃物加工をしていた道訳一次が抜型用刃材を開発、生産開始。
昭和5年: 青木吉之丞の次女、菊代と片山武(二代目社長)が結婚、青木製作所を継承し、片山製作所に改称。
昭和15年: 木材統制で材料難に陥り始めたことから、ベニヤ板六枚合わせの厚合板による抜型製作が始まる。
「青木吉之丞は後継者の片山武と共に数多くの独立開業者を世に送り出す。青木・片山系統は、抜き型業界のなかでは最大の広がりをもっている。二人が育てた弟子・孫弟子たちで構成する、「青山会」は、青木と片山の性を一文字ずつとって名付けられたものだが、会員約30人を擁し、今でも、毎年、幹事が二名ずつ交代で世話をして、親睦旅行を楽しんでいる。」
昭和32年: 塚谷刃物製作所が刃の自動加工ラインを導入。中山紙器材料も前後してこれを始めた。
昭和35年頃: 糸鋸機械が急速に発達する。紙器抜型用として三山機工が出した、「自動ハンク糸鋸盤ジュニアペック一四〇〇」が3百台売れる。
昭和37年: 東京抜型工業会発足。初代会長に片山武が選ばれる。
昭和40年: 東京抜型工業会初代幹事の生出千代治がコンピューターを組み込んだ「生出式紙器抜型用自動製図機」を開発。
昭和47年: 片山抜型製作所が「生出式自動紙器抜型用自動製図機」を導入。
昭和49年: 日本初のレーザー・ダイボードカッター機の開発を目的に、レーザークラフト社が設立される。初代社長に片山勇が就任。
昭和50年: 日本初のNEC製レーザー1号機が誕生
昭和55年: 世界初のサンプルカッター(武藤工業製)が片山抜型製作所で稼働を開始。
注釈 *1
ビクトリア印刷機:はじめは印刷機であったが、後にインキローラーをはずし、抜型が装着され、打ち抜き機として改造し転用されるようになる。
関東方面では、ビクトリア機(またはビク型)が打ち抜き機の代名詞となる。

注釈 *2
トムソン型:米国製本格的打ち抜き機械。トムソン社(トムソン・ナショナル・プレス社)は活字自動鋳造機の開発でも知られ、大蔵省印刷局に明治44年に輸入される。